霊魂は永遠であるが、業物質により束縛され、涅槃に至るには束縛から自由になること。霊魂は、訓練と知識によって自らを自由にし、暗い色から明るい色へと変化しつつ、宇宙の天球を通過して上昇する。水泡が水面へ昇っていく様や、表面を覆っている土が水に溶けたために瓢箪が水面に浮かび上がる様に譬えられる。霊魂は業物質を取り除き、世界の束縛から脱して宇宙の頂へ達し、神々とすべての輪廻転生の流れを超えて、涅槃の孤独な至福の内に永遠に住む。涅槃はすべての究極にあり霊魂が平安のうちにある。神秘的清浄の状態とは、自己統合一、孤立である。彼は涅槃に達した。完全無欠、無限にして最上のものに、最高の知識と洞察に・・全知にしてすべてのものを悟り、彼は世界、神々、人間、悪魔の一切の有様を知った。あーあ、この貴重で大事なグチャグチャのゲームを馬鹿にされた事、マッサージとかいう奴等に悪し様にされた事、もしかしたら追浜古本屋店員を冷たい言葉で追い返してしまった事、人生の後悔のトラウマだ。過去のトラウマも濁った心を飛ばし飛び枠を変質しさせ精神的存在に成りたい枠に成る為に必要な事だったんだ。
ヒンドゥー教の思想家たちがブラフマンの永遠なる存在、およびブラフマンと万物の生成過程、絶対的存在、物的世界との関係に関心を寄せていた一方で、仏教は現世からの時間を超えた状態への救済を追求していた。有名な初転法輪において、ブッダは、人間のおかれている状況について四つの真理（四諦）を説いた。まず苦諦とは、この現実世界は苦であるという真理、そこには生老病死をはじめ、憎い者と会う苦しみ、愛する者と別れる苦しみ、求めるものが得られぬ苦しみ、人間の心身に起因する苦しみが数えられる。次に集諦とは、執着と欲望、すなわち快楽や情熱への執着、生存・非生存への欲望が苦の原因であるという真理である。第三の滅諦とは、苦しみを断つことが悟りへの道であるという真理、執着を断つ。最後の道諦とは、滅諦に至るためには、八正道を修行すべきであるという真理である。八正道とは、正見（正しい見解）、正思（正しい思惟）、正業（正しい行い）、正命（正しい生活）、正精進（正しい努力）、正念（正しい想念）、正定（正しい精神統一）をいう。これは統合と孤立へ導くヨーガの八実修法と似ているところがある。涅槃とはブラフマンとなること、完全なる覚醒を達成した暁には生死の輪（輪廻転生）が破壊されている。涅槃は峰の頂上、それは人の望みうるすべてを叶え喜びをもたらし光を灯し更に高遠かつ高貴にして無限である。涅槃において最高潮に達する平安は神自身に内在するものであると『ギーター』は述べている。仏教における神々は宇宙的輪廻（六道）の一部であって、ブッダはそのすべてを超えている。しかし実際には、ブッダは「神々の神」（天中天）と呼ばれ、人々の態度から、ブッダが機能上は礼拝の対象としての役割を満たしていることがわかる。ブッダは或いは涅槃にいてジャイナ教の聖者ティールタンカラと同様に無念無想の状態にある。彼は活動的な救世主というよりも寧ろ救済への道を示す道標である。仏教徒は「聖者の中の王」「闇を開く人」などと呼びかけ祈る。空の理論は、充実というより広い意味において、大乗仏教の中で広まった。現実の存在や観念の限界を越え、広大な空の中で自由になることによって、仏教哲学者たちはそこに仏性との同一を見出した。空を仏性、究極の涅槃であるとみなし、それが万物の中に存在すると説いた。同一（一如）という概念は万物における同じ仏性の内在を示すために使われた。万物は仏性をもっているか、潜在的なブッダである。ブッダへの道はすべてのものに開かれている。あらゆる時においてあらゆる生き物がブッダとなる種子をもっている。我々を涅槃へ駆り立て自由にするのは、我々の中に存在するブッダである。既に潜在的にはブッダであるからこそブッダになることができる。我々は愛する、なぜなら彼が先に我々を愛したから。神のことは神にまかせろ。『ギーター』におけるクリシュナやブラフマンと同じく、『法華経』のブッダは、世界の父、自分自身で生まれた者、救済者、すべての生き物の保護者と呼ばれる。幾百の苦悩に打ちひしがれ多くの苦悩に苛まれた人間を見て、勝れた智慧の力をもつ彼は察知して、神も共に住む世界において救済者となる。この慈悲深い存在は、彼を訪れる一切の衆生をいかなる悩みからも救う。彼はすべての存在を慈しみをもって見、あらゆる徳を満たしている。ブッダの智恵の実現は仏性との合一によってもたらされる。ブッダの超越身への神秘的参与は、ヒンドゥー教においてラーマーヌジャが説く、最高存在としての自己という説に類似している。道とは天の道（天道）であり、観念上のものであると同時に、宇宙の自然の秩序でもある。この道との調和と合一により、人と自然の万物との調和がもたらされる。道家は、最も有益な行いとは自己を浄化し、真理と幸福、自己と世界に対する力を獲得することだと答えるだろう。純粋意識に到達し、万物の内なる真実を見るために、意識の層の覆いを剥ぎ取ろうとした。内なる真実は究極の真理、絶対の至福と見なされており、それにより道士は事物を支配する能力を獲得できると考えた。道家は、「大同」「大道」「大母」などと名づけられた自然の根源的調和がもつ単純素朴への回帰に努めた。一切を放擲することによってすべての生き物を支配する力を獲得する。静寂を保ち無と同化する。善は水に似て、あらゆるものに打ち勝ち、すべての生き物を潤す。道を行うことは天道に従うこと、道によって統治された国は万人に満足を齎す。老子の『老子道徳経』一切万物の根源にあってそれを支配している道と強く合一する、聖人はすべてを放棄するからすべてを得、身を屈するから真直ぐになり、虚ろであるからこそ一杯に満たされる。聖人は太初の「一」をしっかり握り、天下のあらゆるものの規範となる。荘子に帰される道教第二の書『荘子』、改革を行うよりも現実の諸問題から超越しようとする。人間の精神の限界からの個人の自由を説いた。人間は絶対的な真理である道と合一して生きるという意味で、荘子は神秘主義者である。基本的な中国的考え方の一つに二元論あり、それは陰と陽、女と男、暗と明などの対立する二つの原理を想定し、これらの原理は偉大な道から生じたものである。これらの二元理はインドのサーンキヤ哲学における根本原質（自然）と純粋精神に比べることができ、サーンキヤ哲学では男性原理である純粋精神が根本原質から分離することによって自由が達成されるように、道教でも道との合一への回帰は男性原理である陽を通してなされる。有名な道教の経典『黄金の華の秘密』黄金の華の中に生まれた微細身である金剛体という観念、黄金の華は光であり象徴であり「超越的な偉大なる一者」の真の力である。もし陽の力が保たれたら、その時、人は陰陽の相剋から自由な黄金の華の地位に達し、再び偉大な一者である道の一部となる。これは神秘的な合一への探求であり一元論または汎神論である。
