全部の時期の枠が今枠に同時に存在する。全時空間まで広げ広がり外まで飛び出し越え、時空間全体全面まで自分自身としなり更に超越し、16歳も軌跡道程も中心核枠である。宇宙が居る有る存在する、宇宙が来る歩いてる。二十歳２１歳・・若かった、この時にあの追浜古本屋店員とかと恋人同士に抱き捲っていれば、まだ打開復活も可能だった？素晴らしい状況状態も恐ろしく若く優れていた枠も広がっていると思っていた輝かしい未来も壊し壊された現実は、16歳も軌跡道程も枠になり己も世界も望み思い通りにすることで贖える。16歳では超頭良かったんだ、16歳の脳も今枠である。俺の枠の事以外では追浜古本屋店員が人生最大の失敗の後悔か。俺の枠の丹田から生まれ始まり広がっている、そのもの全体全面の中心核の16歳から生まれ始まり広がっている、そのもの全体全面まで俺の中心核の16歳丹田から軌跡道程が生まれ始まり広がっている。16歳丹田から全部の時期の自分が連続している今枠、全身に軌跡道程が充実している。あの輝くばかりに若く優れ美しかった16歳も多少マシだった軌跡道程も今中心核枠にあり、この俺は枠は完全に己の思うところを望み通りの自分を得られる。軌跡道程の中心核始原因源支点が16歳だ。世界全体も16歳丹田から中心核枠という一つの点に集め集まる。はっきり言って、枠の軌跡道程だけでも今枠にあれば、過去の全部の時期の枠だけでも今枠にあれば、入れ居れば有れば存在すれば、絶対圧倒超人的に優れられる。頭も顔も良く身体も逞しく引き締め締まるんだ。信じ思い込み決め付ければ16歳にだって何歳にだって全歳になれるんだ。人間は、その頭脳まで含めて自然の最高の産物であった。宗教の中心的対象である神とは、彼によると、人間の本質、その様々な願望を、神という自然をも人間をも超越した存在に祭り上げたものである。このような存在がいかに人間の諸要求の絶対化であるかを示すことが追求の的となる。フォイエルバッハによれば、神は人間の自己疎外であった。本来人間的なものが、神という空想的な超越的存在のうちで、自己本来の姿を失い、自己と別なものになっているのである。ヘーゲル哲学における自己疎外とは、理念、つまり自然、人間から切り離された普遍的概念の体系（これがヘーゲルでは神の位置を占める）がその本来の姿を失って自然となることであり、理念の自己疎外であったが、フォイエルバッハではまさに逆である。普通の神学は、人間の立場を神の立場にする。思弁的神学は、これに反して、神の立場を人間の、というよりはむしろ思考者の立場にする。神は自分の外に事物を作り出し、自分自身に対して、また他の、自分の外に現存する存在に対して関係を持ち、自己を愛すると同時に思考し、また他の存在をもそうする。人間はその思想や更に感情までも神の思想および感情にし、その本質、その立場を神の本質および立場にする。神は人間の少なくとも理性の本質であるとされながら、実際には超人間的抽象的な存在である。もし神が一切のものを数と限度に従って秩序づけ創造したとすれば、限度と数が神以外の事物のうちで現実となる前に、神の知性の本質の中に含まれていたとすれば、そして今なお含まれているとすれば、数学もまた神学の秘儀の一部だろうか。神は純粋な精神、純粋な本質、純粋な活動、思弁哲学とは思考作用として現実化されたもの、絶対的な思考としての絶対的本質である。
